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広告宣伝部への道

「思考は現実化する(ナポレオン・ヒル)」という書籍を読みました。

 

「想像できるものは必ず実現できる」6

 

広告宣伝部への道

 

大学では、社会学部でマスコミュニケーション論を専攻していました。

映画演劇論、放送論など…ゼミでも報道に関する卒論を書きました。

 

マスコミの力、広告の力に魅力を感じていました。

小学校の高学年の頃から美術(デザイン)に興味を覚え、

工業高校のデザイン部に行きたいとも思っていました。

 

普通高校から一般の大学に進学して…デザイナーという道からは大きく反れてしまいましたが…

 

前のブログにも書いたように、青年期には特に何を勉強したいわけでもなく「関学ブランド」にあこがれ…

結果、合格したのが社会学部だったという訳です。

 

まぁそんな環境で何故か、広告にあこがれをもつようになりました。

「広告」「ロゴマーク」「ブランド」

そんな訳なら広告代理店に就職すればよかったものの、当時の自分は「寄らば大樹の影」…、「大きくない会社は潰れる」と思っていました。

「業界3位以内の会社に行く」という「あさはかな志望」で就職活動を行っており、結果、アパレル(紳士服)の業界3位の会社に就職したわけです。

 

広告代理店の業界3位となると、当時「電通」「博報堂」「第一企画」…とうてい歯が立たないとあきらめていました。

 

アパレル業界はまさに、ブランドの戦争業界…入社した会社もナショナルブランドに力を入れようとしていた時代でした。

当時は、ライバルでもあった「レナウン艦隊」の「ダーバン」のセンス(ファッションから広告・販促戦略に至るまで…)に羨望の眼差しで…あこがれました。

 

 

企業の宣伝・販促戦略の仕事をしたいな…とその頃から思い始めました。

その後、希望がかなう前に転職しました。

 

消費者金融業界の大手「プロミス」に入社すしました。

 

新店オープンの日にその新店に入社しました。

「こんな金貸しって成り立つのかな?」と思っていた矢先、この店(神戸の垂水支店)は初日に15件の新規契約をしました。「へぇー凄いな」と思っていたのですが…

 

会社内の評判は「出来の悪い新店」だったようです。

1か月後、社内報で垂水支店と同日にオープンした奄美大島の名瀬支店の新店オープンの記事が掲載されていました。

 

「なんと!初日150件の新規契約!!」

ひっくりです! 「驚愕」という言葉がまさにピッタリでした。

 

プロミスのような業種は、BtoCで一般消費者相手の店舗での待ちの営業スタイルです。

新規顧客獲得はまさに「広告宣伝力」の賜物です。

 

この瞬間から「この会社の広告宣伝部で仕事をしたい!」「広告力で会社を引っ張る!」というのが自分の願望・目標になりました。

 

以降、この想いは絶える事がありませんでした。

支店、債権管理室など営業現場の仕事に埋没するなか、コツコツと宣伝の書籍などを読みながらチャンスを待ちました。

 

この会社では、毎年「自己申告制度」というものがあり、希望職種や将来の希望などレポートを提出する制度がありました。

私は当然「本社広告宣伝部」の希望で学生時代に学習したことなども交え「レポート」し続けました。

 

入社3年目を迎える頃に「エリアマーケティング」という取組みを会社が取り入れ、

各営業部(都道府県)単位で折込広告や誘導看板、街頭配布などの販促活動を地域単位で企画・実践する試みが始まりました。

 

私は早速、立候補し兵庫県の支店の販促活動を取りまとめる役をさせてもらうことになりました。その業務で大阪支社の広告宣伝担当者と密に連絡をとりあうようになり、会社の広告宣伝に対する考え方や実例など…目新しい、貴重な情報も多く知ることになり、「絶対、広告宣伝部!」という気持ちを高めていきました。

 

その後、支店長候補者研修にも合格し支店長の資格を得ました。

希望とは違いましたが…、まぁ同じ営業なら役職者の方が仕事も幅が広がるし、給料も上がりますから…

入社5年目くらいでしょうか、前任の支店長が25歳の若さで急死することになります。

後任を待っていたのですが、

担当部長から「お前、ここの支店長やってくれ!」

 

「嫌です!僕は本社の広告宣伝部に行きたいですから」

「本社からお呼びかかってないやん。呼ばれたら行かしたるからそれまで支店長してくれ」

…ということで支店長をすることになります。

 

で…1年後、突然、大阪支社長が支店にこられて

「お前、本社の広告宣伝部なんかにはいかんよな!大阪支社で頑張ってくれるよな!」

というお言葉です。

 

〝本社からオファーがあったんだ!(レポート出し続けた甲斐があったんや!)〟

 

「いや!絶対 本社広告宣伝部で仕事したいです!夢です!目標ですから!」と必死で懇願しました。

しかし…、「アカン!お前は支店長やから大阪支社の支店で頑張ってくれ!俺は広告宣伝部行きは認めん!」と一蹴されます。(それならなぜ、わざわざそんなこと言いにきたんやろ?)

 

で…!却下です。

 

その後、支店長としてなんとか成績は頑張っていました。しかし、支店運営の方法を巡って支社長の方針に納得できず、何度も意見具申しました。いわゆる意見の衝突です。

「YESマン」になれれば苦労もせず済んだのかもしれませんが…揚句、明石支店の主任に降格されることになります。

(広告宣伝部行きは却下されるわ、よかれと思っても支店運営で意見踏みにじられて揚句左遷です)

 

腐りました。ヤル気失せました。退職も考えました。

そんな中途半端な感じで主任として過ごしていました。丁度昭和から平成に年号が変わる頃でした。

 

ある年度末の大阪支社からの全店FAX…人事異動の辞令です。

FAXを受け取った女性社員のひとこと

「「主任!大阪支社の広告宣伝担当勤務を命ず」って書いてますよ!4月1日付です」

FAXを見つめながら…「じわぁーーーーーっと涙が…」(まぁ必死でこらえましたが)

入社7年目にして、大願成就(本社ではありませんでしたが…(笑))

(その年度の初め支社長は交代していました)

(新任の支社長は支社の広告宣伝担当から私の話を聞き、白羽の矢を立ててくれたのでした)

 

その後、5年間大阪支社で広告宣伝を担当することになります。

以降、通算20年余に亘り「広告宣伝部」で仕事をすることになります。

そしてこれこそが私の唯一誇れる「キャリア」になることになります。

 

そして2016年4月、販促計画株式会社を起業することになりました。